どの球団にもトラブルというものはつきものである。
それは中日ドラゴンズにしても例外ではない。
創立期にハリスらの大量脱退選手を出したちょうど10年後、
またしても中日に大量脱退事件が発生した。
俗に言う「赤嶺旋風」である。
ドラゴンズというニックネームが名付けられた1947年のシーズンも終了した11月1日。
中日は赤嶺昌志代表を更迭し、中村三五郎新代表を就任させた。
この時、チーム内の親赤嶺派が行動を共にし、実に12名もの選手が集団で退団してしまった。
これが事件の要約である。
このとき退団した選手は小鶴誠、金山次郎、古川清蔵、加藤正二、野口正明、
藤原鉄之助、井上嘉弘、三村勲、藤本英雄、岩本章、長島甲子雄、松尾幸造
の各選手とマネージャーの小阪三郎である。
赤嶺旋風での退団選手
| 名前 | 守 | 前年成績 | その後 |
| 藤本英雄 | 投 | 17-15-1.84 | 巨人。ノーヒットノーラン。 通算200勝 |
| 井上嘉弘 | 投 | 2-01-1.71 | |
| 松尾幸造 | 投 | 0-02-3.43 | |
| 藤原鉄之助 | 捕 | 1-25-.248 | 急映-巨人-広島主力 |
| 長島甲子雄 | 捕 | - | |
| 三村勲 | 三 | 2-16-.191 | 松竹優勝メンバー |
| 金山次郎 | 二 | 2-29-.243 | 松竹-広島。盗塁王3回 |
| 加藤正二 | 外 | 4-36-.256 | 大映主力 |
| 野口正明 | 外 | 0-05-.244 | 大映-西鉄。投手転向通算83勝 |
| 岩本章 | 外 | 3-09-.204 | 阪急-広島主力 |
| 古川清蔵 | 外 | 11-44-.234 | 長年阪急の主力 |
| 小鶴誠 | 一外 | 9-38-.211 | 松竹-広島。 現在でも日本記録の161打点記録 |
| 投手:勝-敗-防御率、野手:本-打点-打率 |
ほとんどの選手が前年の主力選手であった。
その「赤嶺一派」は当初の予定通り、大映球団に身を寄せる。
しかし、事はスムーズには運ばなかった。
翌1月19日、連盟は大映球団の加入を正式に拒否。
大映球団はこの年結成された国民リーグの大塚アスレチックスと行動を共にする。
2月13日に大映は既存球団の東急と合流する形で連盟に参加が決定。
急映フライヤーズとして発足するが、
10選手に連盟は出場停止30日の処分を科した。(長島、松尾は引退)
選手は中日に戻ってくることはなく、バラバラに各球団に散っていった。
その中には当時を代表する選手も少なくなかった。
当の赤嶺は球団を私物化したとの理由で球界から永久追放されることとなった。
そしてドラゴンズは主力がごっそり抜けた後遺症が響き、48年シーズンは最下位に
終わることとなる。
以上が赤嶺旋風の詳細であるが、47年シーズン中より予兆は見えていた。
積極的に球団経営に乗り出した中部日本新聞社と球団代表赤嶺との対立が、
そのまま杉浦監督と赤嶺派主力選手との対立となりゲームに現れていた。
チーム内に亀裂が入ったままでは十分な成績は上げられず、2位ではあったものの
首位阪神に大きく離される結果となった。
協約もなにもない無法地帯であった当時において、選手の自覚もなく
やむを得ない事件であったかもしれないが、中日にとっては手痛い打撃であった
ことは確かであろう。
余談ではあるが、2年後リーグ分裂時に大阪(現・阪神)の主力がパリーグにごっそり
移籍したことにセリーグの首脳は危機感を抱き、
事件後、大映にて球団経営し、藤本定義監督とまたもや対立していた赤嶺を
コミッショナー事務局に呼び戻した。
赤嶺は大映の主力選手であった前出の小鶴、金山、三村
ら5選手を松竹に入団させることとなった。
(コマンチ@管理人:2003/03/14)