| 1995年(平成7年)-中日ドラゴンズ |
| 監督 |
高木守道
、徳武定祐
、島野育夫
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| 二軍監督 |
島野育夫
、正岡真二
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| 開幕投手 |
今中慎二
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| 観客動員数 |
1,787,000人
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1試合平均 |
27,492人
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1995年選手名鑑 |
投手成績 |
打撃成績 |
試合一覧 |
入退団選手 |
| 順 |
チーム |
試 |
勝 |
負 |
分 |
率 |
差 |
| 1 |
ヤクルト |
130 |
82 |
48 |
0 |
.6308 |
-
|
| 2 |
広島 |
131 |
74 |
56 |
1 |
.5692 |
8.0
|
| 3 |
巨人 |
131 |
72 |
58 |
1 |
.5538 |
10.0
|
| 4 |
横浜 |
130 |
66 |
64 |
0 |
.5077 |
16.0
|
| 5 |
中日 |
130 |
50 |
80 |
0 |
.3846 |
32.0
|
| 6 |
阪神 |
130 |
46 |
84 |
0 |
.3538 |
36.0
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この年を象徴したのはなんといっても投手陣の崩壊であった。
セリーグ最多被安打、最多被本塁打、最多失点。チーム防御率4.75は12球団ワースト1などの数字をみると一目瞭然である。また、故障者の続出も想定外であった。
開幕阪神2連戦はともに3-2のスコアで連勝。
しかし内容は2試合で8投手を注ぎ込み、予兆は見えていた。
11日からのヤクルト戦は3試合で22失点。 18日の広島戦から23日巨人戦まで5連敗。5試合の失点は29。1試合平均失点6では勝てるはずもなかった。
この間、仁村徹が15日に左手首痛で、山本昌広が20日に左肘、左膝痛で離脱。山本の復帰は6月中旬までずれこんだのは痛かった。
5月に入って2日から4連敗。20日からは6連敗。開幕してからここまで3連勝はなし。1勝2敗ペースでは最下位も致し方なかった。
5月は14日に金村義明、25日に大豊泰昭がリタイア。大豊の復帰は6月末にずれ込んだ。
6月に入っても降下はとまらない。
2日には高木守道監督が阪神戦の試合前に辞意表明。その試合は指揮を取ったが、6回、久慈の一打の判定に激高。友寄一塁塁審に暴行してプロ初の退場。そのままグラウンドを去った。
徳武定祐コーチが代行となるがチームは浮上せず、 28日のヤクルト戦から6連敗。
29日にはロッテから移籍したホールが両膝手術のため帰国、そのまま退団した。
前半戦終わって首位ヤクルトに24.5ゲーム差の最下位。
徳武監督代行が辞意。島野育夫二軍監督が監督代代行として登場する混乱ぶり。
8月に入っても故障者は止まらず、2日打率1位を突っ走っていたパウエルが肉離れでリタイア。
4連敗2度、3連敗1度とチーム状態も最悪。19日にはとうとう借金30の大台に乗ることとなった。
8月末にパウエルが復帰しても調子はあがらず、9月9日から4連敗。
しかし、このころには中日以上に絶望的な戦いをしている阪神がいた。
上記の4連敗をしても、5位阪神とは1ゲーム差。
最下位脱出が命題のチームは9月17日以降の阪神戦4戦はすべて勝利し、辛うじて最下位は免れた。
中日唯一の明るい話題はパウエルの首位打者であろう。 .355で2位横浜ローズに4分の差をつけ堂々たる首位打者だった。
投手陣は規定投球回達成者が今中慎二ただひとり。
抑え投手はまったく固定できず、6月末まで9セーブ、シーズンを通じても19セーブ。中山裕章、郭源治、古池拓一のストッパー候補はいずれも成功しなかったのが敗因であろう。
一軍の戦いぶりが移ったのか、ウェスタンでも全チームに負け越しの最下位であった。
(コマンチ@管理人:2003/05/04)