プロアマ絶縁~柳川事件~

1999年1月1日をもってアマ球界はプロ退団者の受け入れを一部再開することとなった。
現在では多くの選手がプロから社会人野球への転向や、学生野球での指導者として活躍している。

だが、数年前まではプロとアマの垣根は非常に高かった。
なぜそこまで仲が悪いのかと疑問に思ったものである。
原因は中日ドラゴンズにあったのである。

社会人野球協会とセ・パ両リーグは以前より「選手の転出と加入に関する協約」を結んできた。 発生するであろう数々のトラブルを未然に防ぎ、お互いの発展のための協定である。
毎年シーズンオフに代表者会議の中で修正を加えながら良好な関係を保ってきた。
1961年の主な項目は以下の通りである。

・シーズン中(3月1日~10月31日)は社会人野球の選手を引き抜かない
・プロ退団者は資格審査室の承認を得た後、翌年秋の産業対抗大会終了後、 すなわち退団1年後に登録できる。

ところが、プロ側はプロ退団者の夏の都市対抗終了後からの出場、 1チーム1年に3人までの登録人員増加を要求。
受け入れられないとなると協約締結の破棄に踏み切る。
無協約となった矢先の4月20日。 中日ドラゴンズが日本生命の柳川福三と契約し、入団発表を行った。

社会人協会では緊急全国理事会を開き、対抗手段としてプロ球界との絶縁を宣言する。
次年度からはプロ退団者の受け入れが廃止され、長い断絶の時代が到来した。

中日ドラゴンズは当時の高田代表が、鈴木竜二セリーグ会長の許可を受けて、 柳川との交渉に入ったのであるが、アマ側の意向を無視した無謀な行為だったとは 言えないだろうか。

柳川福三 が平凡な控え選手で終わったことからも、 プロ側の損失は大きかったのではないだろうか。

関連ホームページ
日本野球連盟・プロ野球との関係についての改正

(コマンチ@管理人:2003/06/22)