看板選手に向けて~背番号1列伝~

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名前 ポジション
丹羽淑雄 1936 投手
小島茂男 1936~1938 内野手
戒能朶一 1938~1940 内野手
大沢紀三男 1947~1948 投手
坪内道典 1949~1953 監督
牧野茂 1953~1958 内野手
本多逸郎 1959~1960 外野手
濃人渉 1961~1962 監督
高木守道 1963~1982 コーチ
藤王康晴 1984~1987 内野手
近藤真一 1988~1991 投手
種田仁 1992~1997 内野手
福留孝介 1999~2007 外野手
堂上直倫 2008~2014 内野手
友永翔太 2015~2017 外野手
チームの看板選手が背負うことが多い背番号「1」。
他球団に目を向けてみるとやはり王貞治の背番号であろう。
鈴木啓示、古場竹織、若松勉、秋山幸二などもその流れだろうか。

ドラゴンズの背番号「1」でチームの看板選手であったのはなんといっても高木守道であろう。
4年目から実に18年間「1」を背負い続け、そのうち規定打席に到達しなかったのはわずか3シーズンであった。
盗塁王は3回、ベストナイン7回のすばらしい成績を残し、中日史上初の2000本安打も達成した。
また、引退後も2年間コーチとして背負い続けた。

戦前の「1」の選手は際立った活躍をした選手は出なかった。
リーグ分裂期に中日の「1」として最初に活躍をしたのが坪内道典である。
移籍時はすでに晩年であったが、トップバッターとしてまだまだ健在であった。

その坪内の番号を継いだのが牧野茂である。
後に巨人V9の参謀役として名を上げるが、当時も華麗な守備が魅力の選手であり、レギュラーとして活躍した。

その後の2年は本多逸郎が背負ったが、 1961年に「1」を背負ったのはコーチから昇格し、監督となった濃人渉であった。
ルーキー権藤を擁し、2位。翌年も3位であった。

高木守道がコーチとして60番台の背番号に変更した後、「1」を継いだのはルーキー藤王康晴である。
享栄高から甲子園での数々の実績を引っさげ入団した藤王であったが、結局プロでは一軍半の選手に終わった。

その藤王から背番号を奪ったのが、同じ享栄高の後輩で、ルーキーイヤーに鮮烈なデビューを飾った2年目の近藤真一であった。
だが、その2年目はローテーションを守り8勝を挙げたが、その後に勝ち星が付くことはなかった。

近藤の後を継いだのは種田仁である。
「1」を背負った2年目には全試合出場を果たすが、やはりその後はスタメン定着とまではいかなかった。

1999年にその「1」は3年越しの恋人、ルーキー福留孝介に渡されることとなった。
福留は年々成長をし、2004年には開幕4番に座るまでになった。
同じ「1」の大先輩高木守道に匹敵する実績を残すであろう福留。
球史に残る選手となるのはこれからである。

(コマンチ@管理人:2004/05/16)